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ようやく本が送られてきた。
さっそく第一章は読み上げたんだが、そこにある印象的な言葉は、
サッカーは不自由でなく自由でなければいけない
このフレーズ。
8人制サッカーの教科書、11人制サッカーに繋げるための原理原則の整理あたりがこの本の趣旨になるかと思うが、
そのテーマに沿うならば、解釈によっては、それは自由の制限に捉えられ、
ある意味矛盾に近いものを感じる部分もあると思う。
だが、自由と規律のバランスの重要性がよく問われているように、
自由にプレーするためには、原理原則の理解が必要とするならば(そういった事を本書では整理したいのだと思う)
ただ野放しでさぁやってきなさい!の自由じゃなくて、
自由にプレーするための最低限の理解度は持たなければいけない。指導者としては教えてあげないといけない。
こんな示唆を与えてくれるものになる。
自由にプレーするためにまず整理すべきは、相手がいるという前提だと思う。
相手との関係性の中で自分のプレーを発揮できなければ、
自由にドリブルしたところでぶつかる、引っかかるのシーンは多くなるだろうし、
しっかりボールを捉えてパスしたつもりが、相手が見えてなければパスカットされ効果的なパスとしては成立しない。
かと言って、相手との関係性をしっかり見えてたとしても、
そこに技術的な安定がなければ、
ドリブルで運ぶ事も交わす事もできないだろうし、パスがな繋がる事はない。
相手との関係性の中で、確かな技術がある事
が自由なプレーに繋がるんじゃないだろうか。
1章にはこんな事も書いてあった。
確かに、うちの5年生達も、身体的に敏捷性も高い子が多く、ボール扱いもそこそこ上手い。
だが、それがプレッシャーの度合いによってかなり変わる。
もちろん、プレッシャーの度合いよって技術の発揮に差が出るのは当然なんだろうが、
交差点の状況も把握せずにドライビングテクニックに頼って侵入していくのは、
まさしく、この図に書いてある事そのもの。
状況を見極め適切なタイミングで侵入すればもっとスムーズに持ってる能力を発揮する事ができますよ
という事なんだろう。
無理矢理突っ込んで、ドライブ(プレー)していく事が自由なのか?
状況を見極めて(原理原則を踏まえた上で)ドライブ(プレー)していく事が自由なのか?
自由という言葉から連想されるのは、思い通りにという言葉だ。
思い通りにプレーするには、
いつ、何を、どのように見るかを考え、
それらの基準となる味方、相手、ボール、ゴール、スペースの理解が進まないといけない。
高性能なボディやエンジンを積んで、性能の差でできる・できないのチャレンジを繰り返すその行為自体を自由と捉えるのか?
性能の良し悪しに関わらず再現性高くプレーできる事を自由と捉えるのか?
今の不自由が自由に変わる事があっても、
今の自由が不自由にならないようにしないといけない。
とすれば、ドライビングテクニックを磨くとともに、交差点のルール(原理原則)も今のうちに深めておくべきなのかな。
ちなみに、昨日は5位になってたが、少し前まではAmazonのサッカー本ランキングで1位だったらしい。
瀬戸口さん買った方がいいんじゃないですか(笑)
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